熱中時間2007/02/04 12:00

NHKワールドで、「熱中時間」という番組を見た。 俳優の藤岡弘がコーヒーに熱中しており、茶の湯とコーヒーを交えたのみ方を披露していた。 生豆を自分で炒って、挽いて、茶器に入れて茶筅で点てていた。 「和洋折衷」といっていたが、この飲み方はまさに、日本とコロンビアの融和になるのではないかと思う。 是非、コロンビアでもこの茶の湯とコーヒーの融合を試してみたい。

日系人連載最終回2006/05/10 12:28

シリーズで職場のメルマガに書いてきましたが、これで最終回です。

シリーズ「多文化共生と日系人」 ~最終回 中南米から日本へ~
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  皆様、この連載も今月で最後となりました。

 この中部地域には多くの日系人が居住しています。中部地区にお住まいの皆さんに、海外移住史を知って頂きたく始めました。
 今回は、いよいよ佳境で現在につながって行きます。

 日本が高度経済成長期から安定成長期に入り、産業化や工業化の流れで労働力不足という問題が発生します。一方で、中南米諸国では急激なインフレや経済の不安定さもあり、80年代から戦後移住の1世などが、日本に就労に来るようになります。

 また80年代半ばになると日本の国籍を持つ移住者や2世などの家族呼寄せなどもあり、数が増えていきます。

 そして、80年代後半に入るとちょうど、日本はバブル期を向かえており、日系人のみならずアジア諸国からも多くの人達が就労に来ます。

 90年には「入国管理法」が改正されると、2世や3世の就労が増えていきます。
 滞在形態も短期滞在型から、家族単位で来日する人達が増え、定住型に変わってきています。

 この中部地域、三重県、愛知県、静岡県、岐阜県はたくさんの企業や工場が集中しており、多くの日系人が就労しています。

 私の家も水産加工を行なっていましたが、海外からの就労者がいないことには事業を継続することはできませんでした。

 また、今後の日本は少子高齢化や高学歴化が進み、様々な分野で労働人口の不足が懸念されています。

 中部地域の都市では、日系社会が形成され、日本に住む日系人たち自身の就労問題だけでなく、子供たちの教育や地域住民との関係も重要な課題になっています。
 各都市においては、「多文化共生事業」が行政の取組み課題となっていますし、テレビや新聞などでも特集を目にすることがあるかと思います。

 日系人と日本人、双方に困難がありますが、これまで私たちの祖先が積上げてきた歴史の中に、解決策が隠されているのではないかと思います。

 海外移住に興味をもたれた方、日系人の友達がいる方々、是非、JICA横浜に併設されている「海外移住資料館」を訪れて下さい。

 そして、私たちの祖先がどのような思いで海を渡ったのか、今、日本にいる日系人がどのような思いで日本に来ているのか、立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか。

戦後の海外移住2006/04/05 19:19

職場のメルマガに連載している記事の第5弾です。
シリーズ「多文化共生と日系人」
    ~第5回 戦後復興と海外移住再び~
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さて、今回は戦後復興と海外移住者のつながりをお伝えします。

 日本が敗戦から復興の道を進むに当たり、中南米を始めとする海外日系人からの支援があったことをご存知でしょうか?

 日本は復興に当たり、国際社会から、「ララ物資」の供与を受けました。
 ララ物資とはLARA(Licensed Agencies for Relief of Asia:公認アジア救済連盟)から送られた物資のことを言います。

 戦後、日本を救済するために、アメリカはもとより、カナダ、中南米の各地から集まった資金や物資を一括し対日救援物資として送り出す窓口として出来た組織がこのララでした。
 この「ララ」の設立と活動の影には、明治27年に盛岡市で生まれ、日米時事新聞社を創設したカリフォルニア在住の日系アメリカ人の浅野七之介氏の献身的な努力があったといいます。

 沼津でもブラジルやベネズエラなどに在住する親戚などから支援のための資金援助がありました。当時は、1米ドルが360円の時代で、沼津の人たちは非常に助かったといっています。これら海外からの資金を元に商売を始めたり、船の修理を行い漁業に復帰したり、やはり海外の日系社会からの支援が無ければ、早期の復興は難しかったようです。

 また1954年(昭和29年)に外務省の関係団体として海外協会連合会(海協連)が設立され、移住者の募集、送出や現地受入業務などを始めて「戦後移住」が開始されます。
 1963年には海協連が発展的に解消し、JICAの前身である海外移住事業団(JEMIS)が設立され海外移住送出サービスを担って行きます。

 戦前と戦後移住の大きな違いは、政府の支援機関が作られ助成金や資本金などの支援が行なわれたことにありました。
 戦後の経済復興期の移住は、従来の過剰人口の解消策や海外からの送金による外貨獲得等という考え方もありましたが、日本が復興期を経て経済発展を遂げる
 1960年代になると、移住者数は減少し、移住への考え方も変化していきます。

 JICAは1994年(平成6年)まで、海外移住者送出事業を行なっていました。
 現在は、定年退職した人たちが海外で老後を送るために海外移住をするケースが増えており、タイやフィリピンなどでは退職した日本人を積極的に受入れる政策を取っています。
 いまが、第3次の移住の波の中にあるのでしょうか。

太平洋戦争と日系人移住者2006/03/01 19:15

職場のメルマガで連載している記事を転記します。
 シリーズ「多文化共生と日系人」
        ~第4回 第二次世界大戦と日系人~
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 さて、今月もやってきました。連載特集。
 前回は、戦前にパナマから引き上げて来た私の祖父母の話をしました。
 そのまま、パナマに残った親戚もいました。太平洋戦争が始まり、海外に在住する日本人達はどんな運命をたどったのでしょうか。

 1941年(昭和16年)に日本はハワイ真珠湾を攻撃し、米国と戦端を開きます。これをきっかけに中南米の国々でも、日本との国交断絶、対日宣戦布告をする国が出てきます。
 特に、パナマは海運の要衝であり、戦略上も重要な位置を占めており、当時から米軍が駐留をしていました。
 太平洋戦争前も、私の祖父などは米軍に魚を売っていたと言います。

 戦争が始まり、対日宣戦布告がなされるとパナマの日本人は収容所に連行されてしまいます。
 一部は、現地の信頼できる人や中立国の大使館等に資産を預けれた人も
いたようですが、多くの人たちは資産凍結・没収されてしまいます。
 当初は、国内の収容所等に隔離されていましたがそのうち、カリフォルニアの収容所に移送されます。ここには、ペルーなどからも日系人が移送されてきたそうです。

 戦争が終わると、米国に移送されていた日系人達も解放されますが、多くの国では努力して作った資産は没収されてしまいました。
 特に、パナマでは日本人は雑貨商、クリーニング、理髪店等のサービス業を営む人が多く、農業のように固定資産を持っていませんでした。
ゼロからやり直しになってしまったそうです。
 静岡県の沼津からパナマに出かけていた人は、戦争が終わるとブラジルやベネズエラに再移住をし、再び、生活基盤を作るところから始めていきます。ベネズエラに渡った親戚は、再び雑貨商を始めて現在ではチェーン展開をしています。
 また、ブラジルなどでは、ドラマ「ハルとナツ」で紹介されたように、日系人が「勝ち組、負け組み」に分かれて争いが起こったりしています。

 日本は戦争で焼け野原になってしまいましたが、復興には中南米の日系人から多くの支援を頂いたことを忘れてはいけませんね。
 遠く離れていても、早い祖国の復興を願い、食料や衣料品が海外の日系社会から送られてきました。

***書籍紹介***
 天野芳太郎『わが囚われの記-第二次大戦と中南米移民-』中公文庫

パナマへの出稼ぎ2006/02/01 23:45

会社のメルマガに書いているシリーズものの第3回目です。

シリーズ「多文化共生と日系人」
            ~第3回 ハワイ・アメリカから中南米へ~
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 前回、次回はアフリカへ渡った人をと書きましたが、予定を変更しました。

 1885年にハワイへ初めて契約移民が渡ってから、多くの日本人が海を渡りハワイやアメリカ本土へ向かいました。米国本土ではこれに伴って、日本人が増えるのと同時に、現地での排日気運も高まって行き、地域で社会問題が発生してきます。

 1907年3月、ルーズベルト米国大統領は、ハワイ・メキシコ・カナダからの
日本人の転航移民を禁止しました。これを受け、日本政府は1908年、日米紳士協約を米国政府と結び米国への移民が終わりを迎えます。
 米国への移民が禁止されると、ペルーやブラジルなどの中南米に行き先が変わって行きます。

 時代は飛んで、昭和2年(1927年)静岡県沼津市に我入道という漁師町から、夢を求めて中米のパナマに出稼ぎに向かった31歳の漁師がいました。
 それが私の祖父。新一です。
 日本で漁業を営んでいた彼は、パナマでも漁業に従事し日本の漁業技術を用いて、当時開通したばかりのパナマ運河を航行する船や米国軍関係者等へ魚を販売していました。
 また、当時は「呼寄せ」が一般的で、先発隊として生活基盤を整え、親戚や同じ町からさらにに移民を呼寄せます。
 祖父も同じ沼津からも多くの人を呼び寄せています。

 当時パナマに住む日本人は、商店、理髪店、クリーニング屋を営む人が多かったそうです。隣の床屋のお爺ちゃんはパナマで床屋修行をしたと言っていました。
 祖母も呼び寄せられパナマまで25日の船旅。途中、ハワイ島のヒロ、ロサンゼルスを経由してバルボア港へ入っています。
 行きは日本から野菜の種などを持っていき、帰国の際は鉄屑を大量に持ってきて船賃を稼いだようです。商魂たくましかった人達です。

 昭和13年(1938年)に帰国しますが、祖父は出稼ぎでは成功したようです。
 その要因はなんと、ロテリア(宝くじ)。中南米では宝くじや賭け事が盛んです。
 祖母が無理やり買わされたと言っていた宝くじ。なんと1等と3等が当たり、当時のお金で3千円を手に入れたそうです。
 今の金額でどのくらいか分かりませんが、土地と家を建てて、まだお釣りがあったと言っていました。

 祖母はパナマに住んでいた頃の住所を覚えており、私がパナマを訪問した際に行ってみました。
 タクシーの運ちゃんが「危ないから、降りないほうが良いよ」とアドバイスしてくれて、車の中から見ただけでしたが、旧市街の真ん中あたり、いまは貧しい人達がたくさん住んでいる地域でした。
 海が近くて住みやすそうな地区で「ここで漁師をしていたのか」と、感慨に耽りました。

 そのまま現地に残った親類等は、第二次世界大戦を経てブラジルやベネズエラに再移住をしています。ベネズエラの親戚がいる周辺地区では、
 沼津弁が正式な日本語として採用されています。
 昔聞いた懐かしい言葉がまだ海外では残っています。

 パナマからは2度ほど日本人が消えています。第二次大戦が始まると敵性国の住民はカリフォルニア等の強制収容所へ入れられます。
 次回はこのお話もしたいと思います。

榎本武揚と墨西哥移民団2006/01/11 22:46

メルマガ投稿文書 第二弾です。

シリーズ「多文化共生と日系人」
       ~第2回 幕末の夜明け~榎本武揚と墨西哥移民団~
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 さて、前回は江戸時代までのお話でした。今回は幕末から明治にかけてお話します。

 メキシコへの初の移住グループとなった榎本殖民団に、20名もの
 三河(愛知県)出身者がいました。既に100年以上前に三河からメキシコに渡った人達がいたんですよ。

 イヤーござったペリーさん。1853年にペリーが来日し日本に開国を迫ります。
 この背景には太平洋で鯨漁を行なっていた米国捕鯨船団の補給基地として日本が必要だったようです。
 ペリーの黒船に日本は激震し、この後、時代は一気に開国に向かいす。

 幕府が1866年に海外渡航禁止令(鎖国令)を解くと、官約移民としてハワイ王国への砂糖きびプランテーションへの就労に始まり、アメリカ、カナダといった北米への移住が始まります。
 官約労働移民の多くは3年間の契約の後もハワイに残りましたが、日本へ帰国した人やアメリカ本土へ渡る人も大勢いました。

 また、幕府や各藩からは、多くの人材が海外留学に出かけます。その中には、後に外務大臣を勤める榎本武揚もいました。榎本武揚はオランダに留学し、航海術等を学んで帰ります。
 帰国後、彼は、佐幕派として北海道五稜郭まで戦い抜き、投獄されますが、彼の能力を見出した討幕派により、北海道開拓使として官職を得て新政府の役人として活躍していきます。

 海外で学び、北海道開拓を経験した榎本は、外国へ移民団を送ることを考えます。
 こうして生まれたのが「榎本殖民日墨協働会社」です。

 1897年に35名の移民団がメキシコに向けて横浜港を出航しました。
 これは、日本から中南米諸国へ向かった最初の移民団となります。
 メンバーは自由移民(独立移住者)6名、契約移民28名と監督者から構成
されています。

 これまでハワイ島へ渡っていた多くは広島県、山口県、和歌山県などから
出ていましたが、榎本移民団の監督者であった草鹿砥寅二が三河の出身だったことから、彼の郷里を中心に募集が行われ、この契約移民のうち、20名は愛知県出身者で占められました。
 初めて、メキシコに向かった移民団が愛知県と関わりがあったこと、皆さんはご存知でしたか?

 その後、移民団は資金不足で「榎本殖民日墨協働会社」は解散。
 移住者達はメキシコ革命に巻き込まれたり、土地問題が発生したり、まさに激動の時代を生き抜きます。様々な苦労を重ねながら現地で生活基盤を
強固にしていきます。
 1997年には、彼らがメキシコに渡り、100周年を迎え日系移住100周年事業が盛大に行われました。
 詳しく知りたい方は、後書きの書籍を参考にしてください。

 当時の日本国内は、明治新政府の富国強兵政策に伴って増税が実施され、余剰人口や経済不況などの問題が深刻化していました。
 農村の若者たちは、家族の窮状を救うために出稼ぎに出ていったのです。
 また、官約移民のみならず多くの民間移民会社が設立され、中にはだまされたり、甘い夢を抱えて海外へ出た人たちも多くいたようです。

 当時は、ハワイやアメリカへ渡る人たちも多くいましたが、アメリカで日本からの移民が禁止されると、ペルーやブラジルなどの中南米に行き先が変わって行きます。
 また、最初は数年間の出稼ぎで海外渡航を考えていた人が多くいましたが、生活基盤が整ってくると、家族を呼び寄せたりして定住する人達が増えていきました。
 こうして、新時代の移民は、ハワイ・アメリカから中南米へ、短期の出稼ぎから定住移民へと移り変わって行きます。

 次回は、アフリカへ出かけた人たちを追ってみたいと思います。

海外移住2005/11/23 11:25

職場で毎月出しているメルマガで「多文化共生と日系人」の連載をすることとなった。自分が編集長で、連載記事を作っていくのでこのブログでも紹介していこうと思う。
実は、海軍中尉も移住者の血を引く者。祖父母が中米パナマで12年を出稼ぎとして過ごしてきた。それらもおいおい書いていきたい。

では、第1回目。

 今回から、シリーズもので「多文化共生と日系人」をお届けします。

 この中部地域には多くの在日外国人が住んでいます。
 その多くは、ブラジルやペルーから来ている移住者の子弟である日系の方たちです。

 行政も、「外国人集住都市会議」のメンバーになっている市長村が多く、
 また「多文化共生」が各自治体での取り組みの柱になっています。

 でも、あまり海外移住者のことを知らないのではないでしょうか?

 NHKで10月に「ハルとナツ」というドラマが放映されましたが公式サイトにはこのドラマを通して「はじめて移住者の存在を知った」との書き込みが多く見られました。

 中部エリアに在住の皆さんには、是非、移住の話や日系人の話を知って
欲しいと思います。

 日本は「鎖国」をしていたとのイメージが強いですが、「鎖国」が始まる
江戸時代以前は、多くの日本人が海を渡り、海外へ渡航していたようです。

 支倉常長の慶長遣欧使節団が太平洋を渡りローマ教皇を訪問したことは歴史で習った方も多いのではないでしょうか。

 既にその時代から、海を渡り海外移住をする人たちもいて、室町時代から
江戸時代初期までの間に、日本人移民のひとつのブームがあったようす。

 この時期には、東南アジア各地に日本人街などが作られていました。
また、東南アジアを経由地としてメキシコやペルーなどでも貿易をしていた
日本人もいたようです。この頃から商社マンが活躍していたんですね。

 江戸時代初期(1612年)に、駿河藩沼津出身の山田長政がシャム(タイ)に渡り、活躍しています。最後にはタイの一地方の王国・六昆(リゴール)の王にまでなったのは有名ですよね。

 当時は、シャムだけでも1,500名以上の日本人が住んでいたようです。
この頃には、商人のみならず、関が原の戦いや大阪冬・夏の陣で破れて亡命した人たちも多くいたようです。

 しかし、徳川政権が安定してきた1633年ごろになると、皆さんがご存知のように、幕府の「鎖国政策」のため新たに海外へ出ることができなくなりました。
その後、日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始まりました。
                          つづく・・・(^-^)//""